『グロテスク』桐野夏生
上巻https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4167602091/mixi02sp-22/
2007.1022読了
すべての原因は、その人間を形作っている核とでもいうべきものに存するのではないでしょうか。
――本書より抜粋
美しいものは、そこに美があり、それだけでない危うげな雰囲気だったり、ひきつける何かがあるから美しい。
けれど、美しすぎるものは。
完璧なまでに美しいゆえに、おそろしく醜いのだ。
夏生さんの捉える「女」や「世間」や「人間」は、常に禍々しく冷淡で、いやらしいがこれは真理だ。実際に自分のこころを取り出せば、ユリコの姉のような「悪意」はすくなからずあるような気がする、し、まったく「悪意」がないとしたらそれは、おそろしく美しい完璧なユリコのような怪物だけだ。
そしてそれは「遺伝」なんかじゃ説明のできない、「女性性」というやつなのかもしれない。作中しきりに、
「あんたはお母さんにちっとも似てない」
「お姉ちゃんだってお父さんに似てないくせに」
とか
似てないことがそんなに大事? といったような、応酬があり、つまりこれは作中始終つきまとう問題だ。
しかし、これは姉にひどく似たユリコの醜さの話であり、ユリコにひどく似た姉の美しさの話だ。
そしてそれは、「遺伝」ではない。
ふたりが「女性」だったからだ。
下巻をめくろうとする手が、わくわくしている。
下巻
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4167602105/mixi02sp-22/
2007.1024読了
でも、誇れるものと恥ずべきものは実は表裏一体で、あたしを苦しめたり、喜ばせたりするのだ。
――本書より抜粋(第七章 肉体地蔵<和恵の日記>)
グロテスク、とは何か。
それは、文章的な、表現の奇怪さや醜さではない。すくなくとも、和恵やユリコや「わたし」といったような、人物そのものの直接的な禍々しさではない、と思う。
表裏一体、というのは対極にあるものが一番近しい、ということだが、これが『グロテスク』の一番核だ。ユリコと和恵、そして二人を殺めた犯人はどちらも「そう」なりえた、のだと思う。
ユリコも和恵も、殺されながらまた男を殺めていたのだ、と思う。
そしてそれを、見ているわたしたちも。
これは、実際の事件をモチーフにしているが、その事件を知った同年代の女性たちは「あの事件の被害者は、私です」と言う。誰もが、被害者であり、犯人でもある。
読んでいくと、私たちは誰の話を信じるべきか、迷う。しかし、これはみんな正しく、間違っている。その曲がった事実こそ、真実だ。
自分の視点で語ると、客観的事実からは遠ざかる。
その歪曲に歪曲を重ねた「グロテスク」さに、一度目を奪われたら離せない。
だってそれは、わたしの中にも確かにあるのだから。